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犬と人とを巡る時計/今日という日の価値(3)



(間延びした影は、小雪丸から見た私の「人生時計」?)


前述のような意識のタイムシェアがなくとも、実は犬たちの意識下では、人間よりも、ずっと緩やかに時間が流れているのではないか?そう私自身は感じてきた。
その後、「ゾウの時間・ネズミの時間」(中公新書)という書籍に出会い、その中の学術的な紹介記事を読んで、従来からの疑問に、回答を得たような気がしたものだ。

この本のテーマを要約すると、以下のような記述が印象的である。

「動物のサイズは異なっても、一生の間に打つ心拍数は殆ど同じであり、一生で使われるkg当りの総エネルギー量も変わらない」と。
つまり異なる動物の間にすら、半ば普遍とも言える法則があることを、サイエンスの側から検証している。この本の中には、また一方で「動物はサイズによって流れる時間も異なる」といった嬉しい記述もある。

興味のある方は、是非、手にとって見て頂きたいと思う。先ほど「小雪丸の本棚」にも登録を済ませた(以下のURLから)。
http://booklog.jp/users/white0


一つの実証を味方につけたいがゆえに、あえて書籍の例を引いたが、今回の話はもっとシンプルに考えていただければよい。
心拍数が一生を通じて全て同じというようなテーゼが成立するなら、それと同様に考えることで、以下のようなことも言えるのではないだろうか?


「犬と人とが各々、過ごす一生の長さは同じである」
これを言い換えれば、80歳の老人と15〜16歳の老犬とが、それまでの人生、犬生を各々の意識下で振り返ったとき、各々の人生時計と犬生時計が刻んだ時の長さは変わらない、と言ってもよい。


身近な例で言えば、私にとって1時間の散歩は、小雪丸にとって4時間であり、
私が6時間家を空ければ、小雪丸は延々一昼夜24時間もの間、待ち続けることにもなる。


そう考えると、自ずと一日に与え続けてきた時間的価値というものを、改めて見直さずにはいられない。「私のこの一日が、愛犬の意識下では数日にもなり得る」と、考え始めたとき、今日と言う一日の価値も、おのずと何らかの変化を遂げずにはいられまい。



こう考えれば、「今日と言う一日」が、凝縮された人生の基本単位であり、また解体された人生の基本素子(つまり雛形)であることにも、改めて気がつく。
それは、今まで普通に考えてきた「一日一日の単純な積み重ねが人生」という視点とは、すでにほど遠いものだ。


思えば、人間だけが唯一、自らも死することを知りながら人生を過ごす生物である。
犬たちは、いつか、我が身が死することも知らず、明日どうなるかについてさえも決して憂えたりはしない。ただ、いつも今だけを生き、今日という一日を過ごす。


こうして、犬と人とは、互いに異なる時計を身にまといながらも、日々共存している。犬たちの意識下に、「我々の4倍以上のたおやかな時が流れている」と信ずることさえできれば、そう信じた人の一日も、少しずつ何かが変わってゆくことだろう。たとえその人生時計の針が急に、明日止まるようなことがあっても。



小雪丸稿 | 12:25 | comments(0) | trackbacks(0)
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