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東日本大震災当日午後の回顧録



(本文記事とは関係のない今朝の小雪丸 2011.05.21)


この震災からすでに2ヶ月以上が経過している。その間、別にブログネタがないわけではなかったが、何となく記事をアップすべきタイミングを逃し…ふと気がつけば今日まで来てしまった。震災のちょうど1ヵ月後となる4/11だけは、先代犬ユキの命日とも重なった偶然もあり、唯一ブログを更新したのだったが、それ以降は去る5/14の更新まで長い長いブランクとなった。(本稿は先日の予告タイトル「/椋凖日のこと」の改題である)


正直なところ…あまりに世間が騒然としていたことに疲れてしまったのかもしれない。私らしくもないことだが(笑)…だが一方で、ブログ更新を凍結している間にも、短いテキストだけの独り言ならTwitterを通じて日々流し続けてきた。 リアルタイム・メディアとしての在り方からも、それは震災の直後からずっと続けていた唯一の情報発信といえる。
(参考 kishudogのTwilog: http://twilog.org/kishudog




(本文記事とは関係のない今朝の小雪丸 2011.05.21)


今さらではあるが、特に震災当日3/11の行動に限って少しだけ振り返っておきたい。ただ、イザ書こうとすると、この日以降2週間ほどの特異点とも言うべき期間については、さまざまな要件が入り組んでおり、しょせん短い言葉ではまとめられそうにない。本当のまとめは、きっと多くの人がそうであるように…私もまた原発が沈静化し、被災地が落ち着いた後になって初めて可能なのだろう。ともかく本稿では、震災の起こったときのことから…


3/11…時計の針が間もなく午後3時に近づこうとする14:45頃、職場でPCに向かっていた時、突然、異様な揺れを感じた。私のいたのは、比較的底面積の大きな7階建ての2階で、そのせいだろうか。小さな住宅で後に聞かされたような「下から突き上げるような揺れ」 ではなかった。それは最初は静かに横揺れから始まり、そして次第にその揺れ幅が大きくなって行った。


誰かが「ヤバイ!」と叫び、数人が机の下にしゃがんだのも、ちょうどそのとき。私はそれでも、まだ座席に座ったままであったが、横揺れは次第に上下動も伴うようになった。これは確かに東京で感ずる揺れとしては最大クラスだ…そう思ったときに、突然、同じフロアの一角で「ピーピー」と警戒音が鳴り響いた。その音は揺れと共に鳴り続ける。そして、20秒ほどで?いったん揺れが収まりかけたとき、館内アナウンスで「出火により防火装置が作動しました」「速やかに屋外に避難してください」と避難勧告が流れた。


結論を言えば(どうやら火災ではなく)消火スプリンクラーの誤動作によって、放水が始まり、それと連動して延焼防止の防火シャッターが全て降りてしまったようだ。 それで、我々も降りたシャッター脇の避難用扉から室外に出て、階段を下りて、屋外(今回は中庭に相当する広場)に出た。ほぼ全員がそのようにして、(比較的整然と)屋外に逃れ、しばらくはそこで成り行きを見守ることになったのである。




(本文記事とは関係のない今朝の小雪丸 2011.05.21)


近隣の公衆電話で電話をかける者も多く(そのときはすでに携帯電話の通話は不可)そうこうしながら10数分を過ごすうちに、早くもJR各線が全て運行を停止したとの情報がもたらされた。一言でいえば、あとは自主解散である。安否確認が緊急メールでできるという前提において各自の判断は「会社近隣に留まるか」「駅に向かって復旧を待つか」「自力で帰宅を急ぐか」でよかった。だから私は…「迷わず徒歩で自宅を目指すことにした」…むろん途中でタクシーを拾えまいか?との淡い期待を胸に、ともかく幹線道路を自宅方向に歩き始めた。


時々かすかな小雨も降り始めそうな3/11の午後3時過ぎのことである。私の決断は誰よりも早かったと思う。なぜなら過去に一度だけ会社から自宅まで予行演習を兼ねて歩いたこともあって、早足であるけば40-50kmの行程を8-10時間で歩きとおせることも分かっていたから…初動の午後3時から、ひたすら歩き続ければ、少なくとも日付が変わるまでには自宅に戻れる。私には(身内の安否はむろんだが)大切な小雪丸がいる。そのためにも会社近隣に泊り込むような暇はなかった。


今回の揺れの大きさと、交通機関全面停止との報を受け、自己判断でも復旧は容易には出来ないことは明白だった。首都圏の交通機関は、このような事態での停止が一度起これば、(路線の)安全確認に膨大な時間を必要とする。おそらく復旧のメドがたつのは翌日だろう…つまり経験知からも、待っているような場合ではなかった。




(本文記事と関係のない連休中の小雪丸 2011.05.04)


今回思ったことのひとつ。携帯電話システムは脆弱で被災の直後から、もはや通話はできない。そして強固なのは従来の「黒電話」である。それだけは公衆電話から実家には通じたことからも明らかである。その後一時寸断もしたが、概ね最も安定した通話を確保できた。一方、光ネット関連の電話はダメだ。被災直後からすでに公衆電話からの要求にも反応がない。後にいったんエラーを出すとモデムを初期化(電源の再投入)をしないと復旧できないことも確認している。
(だから黒電話以外の固定電話が不通になった時には「モデム電源の再投入」が必要なことだけは記憶しておくべきだろう)


携帯からの通話はいずれに対してもダメだ。ただし通話が不可能なときでも、被災直後ならば電子メールは飛ばせる。ただしそれも早いほどよい。一定時間経過した後では、誰もが殺到するので、ネットワークが輻輳し、仮に飛ばせても大きなタイムラグを生じて大幅な遅延の後に相手にに受信されるという体験をした。つまり飛ばすならすぐに送信するほどよいことがわかる。


そして意外にもほぼ正常に使えたのがTwitterやmixiあるいはAmebaのようなSNS関連のメッセージや書き込みである。私も携帯のバッテリー残量を気にしながらも、常にその動向をモニタし続けていた。無線タクシーなどにも無駄と思いながらも繰返しアクセスしていたから、バッテリーの消耗も激しい…帰り着くまでは…そしてもし通話ができたときのために、残るバッテリー容量は少しでも温存しておく必要があった。


それでも自らTwitterには、幾度か現在位置を書き残したりもした。ワンセグは使わなかった。電源を著しく消耗するから…もっぱら情報はTwitterから得ながら歩き続けた。そうする間にもTwitterには、東北地方の崩壊の様子や、やがて激しい津波によって三陸が襲われ、車が大津波に流され、津波は川を逆流している…ことが多数、書かれ始めた。




(本文記事と関係のない連休中の小雪丸 2011.05.04)


少なくとも東京都内は(歩きながら幹線道路沿いの民家等を見る限り)目だった損壊は見られない。そのことが、私自身を「まだ壊滅的な被災ではない」と感じさせていた根拠だったが、 Twitterから流される情報は、その想像を遥かに上回っていた。関東はまだ軽く、東北の太平洋岸こそが最大の被災地となったことが、1時間もしないうちに次第にわかり始めていた。未曾有の災害が起きているのだと。


それは自宅にいる多くのTwitter仲間たちが、TVの映像やラジオ、ネットから得た刻々と変化するリアルタイムの情報だった。かつてこんな体験はむろん、私もネットの向こう側にいる人々も、大半はしたことがない…そんな時間が1時間、そして2時間…と流れて行った。タクシーは人を乗せて通過していくが無論、空車などはない。私は黙々と歩き続けた。(こういう時に同方向・相乗りという発想は日本人にはないことを今回ほど残念に思ったことはない)


2時間以上歩き続け3時間たってもなかなか自宅は近づいてこない。当然である。最短ルートではないものの、普段なら電車でも1時間15分ほどをかけて通勤している距離の会社だ。徒歩で…歩きとおすには相応の覚悟がいる。そうして全行程の1/3近くは歩いただろうか。3時間ほどで大田区〜目黒区を歩き通し、やがて世田谷区に入ったところで(まだ世田谷〜杉並〜練馬が残っていた)、突然、目の前にタクシーが停車した。何たる幸運…そう思いながら駆け寄ると、ちょうど1人の男性が降りるこころだ。すぐに運転席の窓を叩いて「乗りたい」意思を伝えた。




(帰宅経路:個人情報詳細を載せられないので概要のみ)


しかし乗車した後も道は渋滞している。目的地は練馬だから…運転手の判断で「まず環八から環七に抜ける」ことになった。しかし運転手の判断は間違っていた。途中からウンともスンとも動かなくなったので、裏道を走ってもらったのだが、一方通行やら何やらで、結局しばらくすると再び環八まで戻ってしまった。その間、1時間弱が経過している。この運転手、残念ながら、あまり状況判断が上手いとは言えなかった。


仕方なく徐行しながら、これまでの状況などを聞く。先客を乗せ杉並区走行中には鳥居が壊れているのを目撃したとも聞き、やはり今回の震災が都内に与えたダメージも決して少なくないことを知る。混雑した道にも関わらず、幾度も救急車や消防車のサイレンも聞こえて来る。 それまでは携帯電話でTwitterにつなぎ、何度か状況説明を確認する程度だったが、タクシーのラジオも、それと同じ惨状をもっと生々しく伝えていた。


巨大な津波が東北沿岸各地に押し寄せて甚大な被害をもたらしていること、石油プラントが火災を起こしていること、それ以外にも多数、火の手が上がっていること。東北広範囲に渡り壊滅的な被害が拡がっていること。映像抜きなだけに、まだ実感がわかなかった。それでもこれは現実なのだと思いながら…




(本文記事と関係のない連休中の小雪丸 2011.05.03)


そうしながら、やがて道も少しずつ流れ始め、環七にようやく入ったあとは、意外なほど順調に流れた(それでもむろん低速走行である)…そして、甲州街道を越え、目白通りを越えた頃には、どうにか普通の速度で走行していた。果たして、幸いなる哉…最終的に午後8時前には、どうにか無事帰宅できたのである。普段の帰宅時刻ともさほど変わらない時刻に…


そして自宅の損傷はなかった。となれば何はなくとも小雪丸の散歩である。慌しく短い散歩を至急済ませた。その間にも何回か余震の揺れを感ずる。やがて近所のコンビニで買い物も済ませ、ほっとした後に、充電を終えた携帯を再度ネットにつないでみると、何通かメールの着信がある。 そのうちの1通がご近所さんからのメールで(往復通信の後)、帰宅できそうにないので、愛犬の様子を見て欲しいとの依頼…


そこで食事の前に急遽、おっとり刀ではせ参じることになった。別に連絡がとれた知り合いの方も一緒である…(本件、事情あって詳しくは書けないので結論だけ書いておくと)… 当の愛犬はすでに、気をきかせたご家族の方によって「無事救出」されており、駆けつけた時はすでに散歩中であった。幸いなことに「結果良し」なのである。いずれにしても、こうした非常時には「先に帰り着けた方が配慮する」…そういった人間関係が日頃から何かあると心強い…改めてそう思った次第である。今回は私が先に帰り着き、助ける立場だったが、場合によっては逆のことだって、あるかもしれないのだから。




(本文記事と関係のない連休中の小雪丸 2011.04.29)


さて、ようやく少し落ち着くことが出来たと、TVのチャンネルを回せば、当然のことながら全てが被災地の映像を流している。私は帰宅中、Twitterでフォローしている人達の流す情報を読みながら歩き、そしてタクシーに乗ってからはラジオ放送に耳を傾けていたが、この時点で初めて、落ち着いてTVからの映像を目にしたことになる。 そこには本当に「パニック映画」の1シーンではないかと思われるような映像が映し出されていた。


自分が生きている間に、これほど広域的な災害が日本に起きるとは…正直、東海地震などの予測は幾度も聞かされていながら、やはりどこか杞憂にすぎない…そう思っている自分がいた。 あの阪神淡路大震災のときですら、わが身に投影して考えたことはなかった。しかし今回だけは、依然として続く大きな余震の中…「これが現実なのだ」…ただ、そう思った。 そして、この時点になっても携帯電話は依然として繋がらず、被災直後は使えた実家への固定電話も繋がらない。いずれにしても、電話は今回レベルの大災害には極めて無力であることもわかった。


教訓として得たのは、古い黒電話が最も強固だったという事実である。おそらく「黒電話同士」ならば、最も確実に連絡がとれたはずだ。 そして携帯電話は最も無力だった。通話は被災から5分後にはもう使い物にならない。携帯メールはまだ飛ばせたが、それも正常に着信できたのは被災から10分以内の発信のみで、30分以上経過してから飛ばしたものは、後に「忘れた頃になって」届いた。ネットワークの輻輳により、全くアテに出来ない機能となるのだ。


そして意外にも…最も有益だったのは、Twitterをはじめとするソーシャルメディアであった。こちらは終始どうにか接続できたし、一部のブログシステムも同様である。こうしたインタフェースで繋がりを持った人々とは、(直接被災地以外)終始連絡が可能だったことを改めて指摘しておきたい。ただし携帯電話などのバッテリー容量には限界があり、目的に適った「ゆとり」はなかった。万一繋がったときの通話に希望を託して、最低限度の残量は維持しようと考えたために、思う存分ネットを活用することも出来ず、残量表示を常に気にしながら、細々と使用していた…というのが現実である。




(本文記事と関係のない連休中の小雪丸 2011.04.29)


ともかく、こうして私の「長い午後」は終わった。午後3時頃に歩き始め、3時間あまりを歩き続け…2時間ほどをタクシーに乗車したことになる。全行程はおよそ「徒歩15km+タクシー25km」くらいだろうか…全部徒歩で歩き通せば、深夜に至ったであろうことは間違いなかった。そして私が、翌日の出勤を見合わせ、早急に自主休暇を決めこんだことは言うまでもない。


また一部は当日夜の散歩(さらに大半は翌日以降の散歩)で気付いたことであるが、近隣の民家でも、今回の揺れで、古いブロック塀、コンクリート塀などの一部は崩れ、そうでないものも明らかな亀裂を生じていた。多数の家が翌日以降はロープを巡らすなどして、復旧工事までの注意を通行人にも促していたが、業者手配もなかなかままならず、大方の修理が片付いたのは、1ヶ月半ほども経過していただろうか。 私の住む東京都練馬区は、それでも比較的地盤の固い場所に属し、周辺民家等での直接的な被害は(塀などの他には)殆ど見られなかった。それでも下町や湾岸周辺等では、地盤沈下や液状化現象など、多くの被災を受け、その後処理は今もなお続いている。

追記:この記事を書いている今日2011.05.21の東京都内は、もうすっかり初夏の陽気だ。日当たりのよい午後はエアコンを入れたいほどだが、節電のためにも我慢している。果たしてこの真夏はどうなるだろうかと…今からすでに思いやられる。
 



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