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震災とTwitterのこと


(2011.06.12 城北公園の早朝散歩; 以下8枚同様)

先月(5/14)「震災諸説雑感」の中で数点の予告テーマを挙げておいたが、今回はその中のひとつ「震災とTwitterのこと」について書き出してみた。項番で言うならい乏催する。(したがって今回も文中の写真は記事内容とは直接リンクせず、平穏な昨日6/12の小雪丸ショットです)


▼日本人とTwitter
さて、2010年は日本にとってTwitter元年と言われる年だったが、今年2011年はfacebook元年とも言われている。だが日本人にとってfacebookはtwitterほど順調には定着していないようだ。登録はしても、活用には至らないユーザが多いのかもしれない。私自身がそうした1人だと思う。

果たして、その違いはどこから来ているのか…時折考えるのだが、どうやらfacebookの(あくまで原則なのだが)実名登録が普及にブレーキをかけているのではないかと思われる節がある。mixiなどにおいても同じことが言えると思うが…日本人は匿名が好きだ。過剰な個人情報漏洩に対する拒絶反応があるのかもしれない。(一方で、facebookとmixiはシェアを分け合う?という観測も成立つ)

その点でTwitterは匿名のまま参加することをスタンダードとしたSNSのツールだ。気まぐれで参加し、望むならばいつでもアカウントを放棄して新しい名前で出直すこともできる。しかしいったん実名を晒してしまえば、そういうわけにもいくまい。
実名を晒すことで自らも他者からの検索を受けやすくすることが出来る。それによって自らの属性に関わる人々(学校・会社・団体など)との連携を強化できるという利点はあっても、何かトラブルが生じたときは身を隠すことも難しい。



Twitterの匿名性は、その点でも気楽な参加を推進する母体なのだろう。facebookは全世界で5億人、Twitterも間もなく2億人といわれる多数のユーザーを擁するSNSだが、Twitterに至っては、その使用言語の2割が実は日本語(日本人)であるという統計結果に、一国としての特殊性を感ずるのは私ばかりではあるまい。

前置きが長くなったが、今回は東日本大震災と、このTwitterとの関係について述べる。
震災当日の回顧録にも、リアルタイムでの情報をTwitterから得ていたことについて少し触れたが、震災当日以降も、このTwitterは重要な役割を果たし、その余波は今もなお続いている。

多くの人々が情報発信者となり、素早く有益な情報を発信し、それを受けた人がタイムラグを最小限に抑えた反応をして動く…非常時のメディアは何をおいても速くなければならない。新聞では遅いことも多いし、TVやラジオといった従来型のマスメディアでは個々の要求には応えられない。

パーソナルメディアにはブログなどもすでに定着しているはずだが、それでもその更新はせいぜいデイリーであり、そのレスポンスにも通常2-3日はかかる。つまり情報がネットに載せられてから幾度かの往復があり、結論を得るまでには時間がかかりすぎる欠点もあるのだ。



その点においてもミニブログと呼ばれるTwitterは速い。まめにアクセスすることを厭わなければ、1時間以内に一つの発信に関わる結論を得ることが出来る。わずか140文字という短い制約をもった情報の飛び交う速度がとにかく速いからだ。

検索もあらゆる方法を駆使して行うことが出来るようになった。一つの発言の大元となるルーツは何日前の誰であったか…そうしたレベルまで現在は辿ることができるのである。少なくともこの一年間でTwitterは進化し続けてきた。そのことは、おそらく一度使用しただけで中断してしまった方には知られていない事実だろう。

そしてTwitterだけの世界ではなく、googleやその他検索サイト、マスメディア、ブログシステムもこの小さなSNSを意識するようになった。つまり「Tweetすること自体が簡略化されている」のである。小さな鳥のマークがネット上の大半に表示されるようになって、ほぼ半年が経過している。どういうことかと言えば、周囲がTwiiterでの話題とされやすくすることを目指して歩み寄ったと言うこともできる。もはやボタン一つで極めて短時間で他人に情報を伝えることにも不自由しない。




▼震災以降のTwitter
さて、震災以降のことであるが…被災地の情報、避難した人々の消息、福島原発の刻々と変化する惨状、被災地に取り残された動物たちの保護や問合せ、支援物資の搬送、ライフライン復旧に至る情報、そして支援物資や義援金のこと…

こうした様々な情報が震災の翌日からは、驚くほどの量と速さで飛び交い始めた。むろん私はさほど多くのユーザを(あえて)フォローしているわけではないから、私自身がネットから読み出す情報といってもたかが知れたものだ。それでも驚くほど多くの情報が流れ、追跡もままならぬほどであった。

もし私の10倍、100倍、1000倍のフォロー数を持つユーザであれば、その量は如何ほどであったことかと思う。画面から(特定フォロー先のみを)読み出す独自の工夫(それはアプリケーションやリストと呼ぶ機能で可能だ)がなければ、ひたすら画面に流される情報に目を凝らすだけで一日が終わってしまうだろう。それほど回転の速い情報がリアルタイムで流れた。

その混乱に、私ですら止む無く、震災直後に有益と思われないユーザの何人かをリムーブしたほどだ。つまり画面に過剰な不要情報を流すユーザへのフォローを自ら切り捨てたのである。それによって本当に必要なフォロー・フォロワー同士の情報交換が可能になる。



Twitterはフォロー(自分から相手を)とフォロワー(相手から自分を)との関係によって情報のやり取りが成立っている。そしてこの人間関係は常に動的に変更できるものだ。だから自分にとって有益と判断できる情報発信者をフォローし、その情報収集枠を拡大していくことが可能だ。

例えば私自身も震災直後は、被災地周辺に在住される方の何人かをフォローしたり、行政の長をフォローしてローカルな公式情報を得られるようにもした(その大半はすでにフォローを解いたが)…こうすることで、伝聞ではない生の情報を得られるようにもなる。

ただ一方で、万人が情報発信者となれるTwitterは、その情報の信憑性においても、常に危うい諸刃の剣であることも事実だ。発信者自身の経験やスキルによっても、その情報の確度がゆらぐことは決して少なくない。

加えて怖いのが安易な伝聞によるデマの拡散である。今回も様々なデマが飛び交い、それに関与する人々を翻弄した。教訓として得たのは「疑わしきは必ず自分の手で確かめる」ということなのである。むろんそれが出来るかどうかが、他人までを巻き込む迷惑情報を発信せずに済むかどうかに繋がっていく。



つまり未熟なユーザは必ずネットに混乱を引き起こす結果となる。そして憂慮すべきは、Twitterのタイムライン(流れる画面)に次々と表示される新情報を発信し、あるいはリツイート(転載による拡散)するユーザが、思慮深いかそうでないか…は即断できないということにあった。

こうした懸念は単に市井の人であるか、それとも有名な肩書きを持った人であるかで、単純に切り分けすることも出来ないことが悩ましい。100万人のフォロワーを持つ男でも時に危うい情報を発信するし、その逆に日の浅い者であっても正しい情報を発信することもある。とりわけ震災以降は、権威や知名度に左右されずに真偽を見極める自努力が必要な3ヶ月間を過ごした気がする。


▼Twitterのジレンマ
今回の震災は「巨大地震・津波・原発事故」という三重苦を日本にもたらした。そして、その中でもTwitterで最も多くの情報が錯綜したのは原発事故に関するものであった。

そして不本意なことではあるが、私の(会社の)所属部門は、震災関連のインフラ…つまりエネルギー、キャリア、メディア等に関するIT分野において、いずれもかなり深い関わりがある。その顧客名はあえて挙げぬが…真実を隠し(?)、被災では脆弱性を曝し、報道においては全てを伝えぬ…と非難される側の企業群と言えば、およそ想像もつくというものだろう。

むろん私の会社は当該企業自身でもないし、私自身がその企業を直接担当しているわけでもない。しかしそれでも、その内部事情や事業計画の詳細は、望めば私の知るところともなる。だから仮に擁護すべき情報の一つを知りえたとしても、それを私はTwitterでつぶやくことはできない。



震災以降のジレンマは、常にそうした意識下の感情を圧迫することとなった。それでも一言でいえば、私は冷静を保つしかない。いや決して無理にとか、虚勢を張るとか、やせ我慢をするとか…そういうことでは決してなかった。私は平常時においても本来ならば冷静な立場だ。むろん、それを信ずるか否かは、皆様にお任せするしかない(笑)

こうした背景もあって、私は如何なることにも安易に「騒げない・騒がない・騒ぎたくない」…しかし、それはどうでも良いと考えているからではない。震災以降のTwitterでは、多くの場面で、批判の声を上げないことを罪悪視する傾向が顕著だった。なにしろ国や東電は情報を隠蔽し利権を守ることに必死、との評価が大半であったわけであるから。

そして、その一部は現実に正しかったことも理解している。しかしそれは飽くまで結果的にそうなったにすぎない…それでも私はそう思うのだ。感情にまかせて先急いだ果てに、必ず良い結果が待っているとはどうしても思えない。最後は冷静に事態を俯瞰できる者が解決への道を見出すはずだ。

一部で言われるように民衆の声を集結したとしても、日本では少なくとも「ジャスミン革命」などは起きない。宗教の背景が違い過ぎる上に、たとえ疑惑は目白押しであっても…少なくとも、今日の日本においては(発言を機に仕事を奪われた当等…異論は多々あろうが)広義の解釈において、一般市民への言論弾圧などはないのだ。それを、所詮影響力のない者への弾圧はない…と曲解してくれても構わないと思うが…



あえて言うなら、独裁政権下や一党独裁の元でこそ「ジャスミン革命」は起こる。現代社会の主流は自由競争と多数決がルール、それが日本も含めた先進国、議会制民主主義国家の大原則だ。そして大多数の近代国家はその道を選んだ。格差社会とは裏腹でも、それが最も合理的な道だと判断したからにすぎない。主観的に見た善悪に偏りはあっても、我々は社会(我々の選んだ代表者)が決めたルールに従うしかない。それが現実だ。理想だけではもはや誰も生きられない。

言論と言えば…私は平常時から政治的なツイートだけは極力避けるようにしてきた。これほど好き嫌いが先行し、一致を見ることの出来ない分野も他にないと思うからである。政党によっても、派閥によっても、そして個人においても…さらには扱うテーマにおいても、我が身と一致する価値観を持った他人が存在するはずもない。

そして価値観の違いによる衝突は、互いが譲らなければやがて炎上となる。私はネットの創生期から、幾度もそうした混乱を見てきた。むろん全ての分野がそれと同じ危険を孕んでいる。しかし政治にこだわる者の執着心はことのほか根深い。そのことを経験的に知れば(我慢出来る範囲においては)余計な小石を投げたくもなくなる…のが道理というものだ。

むろん私自身は決してノンポリではない。ただ歳相応に生きることん学んでいると言っておきたいだけだ。それをどう解釈するかは受け取る側の自由だと思っている。だからと言うわけではないが、Twitterの私は、政治家を一人しかフォローしていない。今後のことはわからないが、今はそれだけで充分と考えている。さらに言うならば、その所属政党の政策は、必ずしも私の日常や老後に優しいものではないことも、あえて付け加えておくべきだろう(笑)。それでもフォローしているのは…おそらくストレートな理想主義が自分の肌に合うから…という理由だけだ。



(2011.06.12 昼下がりの睡眠; 小ユキ)


▼Twitterのフォローということ
前項でも述べたように、Twitterには様々な立場の人たちがいる。そして思い思いのことを呟いて構わないルールだ。フォロー、リムーブ、ブロック、いずれも自由とされる世界だから、気に入らない人の呟きを読まされる義務もなければ道理もない。選択は常に個人の自由に任されている。しかも原則は日本人の大好きな「匿名」という形で常に可能だ。しかし、そこにはやはり幾つかのジレンマもある。

例えばこういうことも言える。こと一つを特定の個人に限ったとしても、その個人そのものに「呟きの範囲」というものがある。つまりは「昨日気に入った発言」をしていた者も、今日になれば「どうかと思うような発言」を不用意に流し、明日は「全く意に反する発言」をするかもしれないのだ。往々にして、それは社会情勢の混乱度に比例して、起こりがちなことだとも言える。

そうでなくとも「ある分野では同意」できながら、また「異なる分野では不同意」かもしれない。そうした日々の葛藤の中で、正直なところ、ネガティブな発言ばかりを長く聞かされると、それは次第に閉塞感を伴ったシンクロを来たす。(少なくとも私はそう感じてしまう)



(2011.06.12 昼下がりの睡眠; ユキ丸)

簡単に言えば「リムーブ」することで、タイムラインから消去してしまえばよいのであるが、これまでの柵があると、なかなかそう簡単にもいかない。相手が非常に多くのフォロワーを擁してして、私個人が極めて目だ立たない存在(one of them)である場合には、それも可能だ。しかし、そこそこのやり取りを経て来たような相手については、なかなかそれも難しい。ものごとを比較的、ドライに割り切れる私において、そうなのだから、真面目であればあるほど、そうしたジレンマには誰もが悩まされるだろう。

総じて言えば、夢中でフォロワーとの関係構築を「増やすことだけ」を目的としているユーザはまだ幸せである。しかし(私も含めて)そうでない者も多い。また一般的な概念として、営業丸出しのツイートや、転載RTばかりで自分の意見のない者のツイートはつまらない。さらに言えば、紋切り型の「同種の分野ばかり連発」されることにも、次第にうっとおしくなる。例えば「動物を救ってくれ」ばかりを日々延々と繰り返し流されると…動物好きの私であっても辟易としてしまうことがある。

そうした中で、仮にも自分にとって、何らかのプラスになりそうなユーザを選んでフォローするようにはしてきたつもりなのであるが…震災以降、各自の視点の向けどころが極端に(被災地救済や原発に)偏ってしまったために、一時期は右も左もネガティブなツイートばかりで辟易とする…半ば憂鬱な日々が続いた。



(2011.06.12 夕食後の睡眠; 小ユキ)

最近は多少、それも持ち直して来た感があるものの、私に言わせれば「まだまだ」なのである。多くのツイートに「ゆとり」がない、落着きがない(それは私も…笑)、すぐにウワサや報道に鸚鵡返しに反応する。果てはデマでも何でも安易に拡散へと走る。

それについては、有名なユーザ(フォロワー数の多いパワーユーザ)でも例外ではない。さらに困ったことには、そうしたユーザがデマ拡散の根源となってしまうこともあるから余計に悩ましい。そうした立場のユーザには、それに相応しい「落着き」が必要なはずであるのに…ときには大人気なく考える前に走る…

この世界では「拙速巧緻」が、ともすれば先行してしまうために、自分自身が常に裏をとるところまで踏込まないと、ときに思わぬ失敗をする。だから少なくとも、自分自身が安易な発散の片棒だけは担ぎたくない…ここ震災以降の3ヶ月は、常にそうした思いと、一方で身軽な発言との鬩ぎ合いだった。

著名人や識者と言えども、その間逆の意見もあり、そのどちらにも条件付の利があり、条件付の不都合がある…今回ほど、ものごとの両面を自らが見極めなくてはならない時期もなかった。そうしたストレスには日々晒されていたことにもなる。むろん私だけではなく、多くのオンライン上で発言をす人々、あるいは黙してただ成り行きを見守る人々にあっても…それは大同小異だろう。

しかし、それでも発言しない限り、安全パイを引いていることは確かだ。一方で、それは何のプラスをもたらさないだけではなく、自らの意見を表明しないだけに、周囲のユーザにとっては疑心暗鬼を呼び込み、結果的にはマイナスとなっていることに気付いていない…そこが本質的な問題とも言える。今回の事態が少しでも早く収拾し、おおらかなツイートがタイムラインの主流となる日を待ち望んでいるのは私だけではあるまい。



(2011.06.12 夕食後の睡眠; ユキ丸)


▼日本への祈り
なお余談ではあるが…震災直後からTwitter上で#pray_for_japanという用語形式(ハッシュタグという)で検索をすると、様々な国の人々が日本へ向けた励ましのメッセージを発信していることがわかるようになった。最も速いときには秒速2-3Tweetsがタイムライン上を流れていたと思う。一度読んだメッセージを数分後に探そうと思っても、それは遥か彼方に押し出されてしまい、容易にキャッチすることさえできない。

それほど世界から発信される日本へのメッセージは多く、圧倒されるほどの量が流れていた。そして現在ではスローダウンしたものの、それは今も続いている。こうした現実と向き合う限り、少なくとも日本は孤独な国ではない。少なくともTwitterを通じて、我々は世界と個人レベルで繋がることが出来る。国家という…ときに融通の利かない権威の枠組みをも超越して…





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